きょうのナナバン

140字以上のあれやこれ。

告白されたひとつの性癖

せっかく日本語を母語にしてずっと日本で暮らしてきたのだから、日本語で書かれた日本の現代小説を積極的に読もうと思うことがたびたびあるのだけれど、なぜか手に取るのは翻訳された外国の小説ばかりで、このまえコツコツと本棚を整理していたら三分の二が外国の小説だった。

残り三分の一についても、ほとんどが同じ顔ぶれと二十世紀前半くらいまでの小説で、現代のいままさに世間の耳目を集める人気作家が書いた小説は、僕がほんとうに令和六年の日本にいるのかと疑うような少なさだった。

それが良いとか悪いとか、ましてや「俺は海外文学しか読まん」と的はずれなインテリジェンスをひけらかしたいわけじゃない。そりゃそうだ。そんなのはむしろ思っていたとしても言っちゃうのはダサいしハズい。

もちろん海外文学を好んで読むことを誇りに思う部分はある、正直ある。ただどちらかと言えばそれは内的な方向の感覚というか、アイデンティティというか、自分の心棒が見えて嬉しいなあといった感情なので、相対的に海外文学への興味が強いタイプの人間だとは感じるけれど、相対的に優劣がどうとかは考えていない。一切。

きょうも翻訳されたものを読んだ。それは日本ではなかなか目にする機会の少ない、いうなれば“マイナー”な言語で書かれたものを集めたアンソロジーだった。台湾、チェコスロバキアカリブ海地域、ハワイ、ジョージアといった国の、紀行文やら評論やら小説が収録されていた。

それぞれ話の中身がめちゃくちゃおもしろかったかと訊かれれば、全部が全部おもしろかったわけではない。しかし一冊を読み終えたときに湧き上がってきたのは、すごく楽しかったなあという気持ちだった。マジサイコーと思った。

こうなってくると、僕は「お話」を読んでいるのではなく、ただ「活字」を読みたいだけなのではないか、という気がしてくる。

世間で言うところの活字中毒ではないと思うのだけど、たしかに説明書や看板やチラシやパッケージの裏なんかは、読む。気がつけば読んでいる。でもしょちゅうじゃない。手持ち無沙汰なときに、嗜む程度だ。

じゃあ日本の現代小説も好き好んで積極的に読みそうなものだけど、現状そうはなっていない。たぶん、翻訳された(多少の歪さを持った)日本語が好きなのだと思う。

性癖なんだろうね、僕の。

勝敗の行方

きょうはちょっといいお弁当をもらった。夕飯代が浮いたばかりか、献立を考える労力も作る時間も省けた。しかもリッチな食事になった。ありがてえ、ありがてえ。これもひとえに、私の人徳である。

さて。ここで堅実な僕は思案する。人類にとっては小さな金額だが、僕にとっては大きな金額である。浮いたお金を貯金に回すべきではないだろうか。小さなことからコツコツと、塵も積もればモンブランと言うではないか。

一方、もう一人の僕も思案する。夕飯代が浮いたということは、好きなことに使えるお金が増えたということではなかろうか。俺のお金は俺のもの、浮いたお金も俺のもの。お金は使ってナンボやさかい。

そして二人の僕は侃侃諤諤、頭のなかでやりはじめる、本屋へ向かう道すがら。

(中略)

まだ読みはじめたばかりだけれど、『サラゴサ手稿』おもしろそうだよ。上中下のボリュームにはちょっとビビるけど。いい買い物ができて僕は満足です。

ご趣味は?

趣味は何ですかという質問にどう答えるべきか考えていた。いつ訊かれるねん、という疑問はいったん挟まないことにして。男女の出会いは趣味の話から始まることもあるかもしれないし。

三省堂のデイリーコンサイス国語辞典(アプリ版)によると、趣味とは「楽しみとして愛好する物事」らしい。うん、そんな気はしていた。ちなみに愛好とは「愛し好むこと」だそうだ。これもそんな気はしていた。じゃあ愛するとは何だと辞書を引くと、「好むこと」という意味が二番目に出てきた。堂々巡りってこういうときに使うのだろうか、と思ったりした。

さて、趣味の話である。僕が楽しみとして愛好しているモノとコトを思い浮かべてみた。真っ先に浮かんだモノは「本」だった。もちろんそこから連鎖して、本を読む“コト”も出てきた。

ならば趣味を訊かれた際は「読書です」と答えるのが僕の場合の正解なのだろうと結論を出しかけて、ふと立ち止まった。

なんとなく、なんとなくなのだけど、僕が楽しみとして愛好しているのは「本を読むこと」であって、読書ではないような気がするのだった。またまた辞書を引いてみると、読書とは本を読むこと、とある。つまりどちらも同じことを指している言葉で、どっちでもよろしいやんという話なのだけど、両者のあいだには何か踏み越えることを躊躇わす一本の細い線のようなものが引いてあるように僕は感じている。目を凝らすと見えてくる、そういった線が。

どちらが高尚だとか、そういうことではない。もちろんない。自分が愛好しているコトの実態により近く、自分にとってしっくりくる表現が二文字の熟語ではなく六文字の文章だった、というだけの話である。

それで一つ思い出した、自分はどうもしっくりこなくて使わない表現があった。読了という言い方だ。短くて便利な言葉なのだけど、ここにも「読み終える」とのあいだにほっそい線が引いてあるように僕は感じる。

ところで、趣味を訊かれる状況が僕にやってくることはあるんだろうか。